2007年07月06日の日記。
池澤夏樹さんと梨木香歩さんはどちらも好きな作家さん。
その二人が物語に関する話をするということで、多分よだれを垂らしながら行った。
なんでこんなに細かくメモったか全然思い出せないけど(約束って誰と?)、講演の内容をすっかり忘れていたのと、改めて読んで感じるところがあったので、書いててよかったー!
また読み返したくなる気がするし、興味深いひとには興味深いと思ったので、こちらのブログにあげなおし。
後半の「物語をどうつくるか」の部分、今まさに石を遠くに放り投げるやり方でつくってみているので、おお…と思った。
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最近の私は、最終的に消すなら何書いてもいいと思ってるかのような乱心ぶりだが、今日は消さないつもりだ。
多分需要はない。しかし、以前超緻密なレポートを書くと約束したので、異常な文字数のメモを披露したいと思う。
携帯で見ている人は、悪いことは言わないからやめておくべし。
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今日は作家池澤夏樹の講演会に行ってきた。ゲストとして梨木香歩さんが来てらした。
とりあえず二人の印象を言うと、池澤さんはガラパゴス諸島にいるエリマキトカゲのような感じだった。あと目がガチャピン。馬鹿にしていると取られたら、それは誤解。すげえチャーミングな生き物っぽい顔をしていた。あと目力がすごい。サイン会のとき、私は言おうと思ってたことが全部飛んで結局「ありがとうございます」(にこっ)しか言えなかったのだけど、池澤さんが本を手渡してくれる際に、本当にまっすぐ目を見てくださったので、感激した。目が合うだけで、何かをもらった気持ちになるのだから(一方で奪われたような気にもなる)、目力がすごい人というのは得だなと思った。
対する梨木さんは、えらく品のいい顔立ちの整った綺麗な女性だった。日本語も完璧。柔らかな笑顔を常に浮かべていて、このひとは本当にやさしいひとなんだな、というのがすごく伝わってきた。でも、多分何かを偏愛するひとなんじゃないかなと勝手に理解。独自の世界観があるというか。
講演会の内容については、今回の趣旨として朝日文庫から『静かな大地』という本が文庫化されることになり、その刊行記念イベントという形だったから、その内容に関することがほとんどだった。
「静かな大地」というのは、アイヌの人々と開拓使として北海道に渡ったひとたちのかかわりの記録、そして滅びの歴史を書いたものだと思う。(まだ読んでないが、多分そんな感じ)
この本のつくりは少し変わっていて、すべてが誰かに語られた形式をとっている。もちろん1人称。語る人は途中で変わったりするのだけど、おおむね誰かに語る形でそのとき起こったことが人の口から紡がれる。そして、この物語の主人公である三郎が語ったものはないということだ。
多分すべての語りに三郎は登場する。でも、当の三郎視点ものはない。
なぜかというと、読めばわかるんだが三郎がヒーローだからだ。ヒーローっていうのは自分でヒーローだって言っちゃいけないし、思ってもいけない。他人から見た姿がヒーローであるという客観性を必要とするものなのだ。だから、むしろ本人は何も言わないほうがいい。(これ、すげえ理解できた)
個人的に「語り」の構成がとても面白いと思っていたので、そこらへんの対談内容はじっと聞いた。
語るという形式は、嘘も混じる。梨木さんが、「語るってことは、その語っている本人の個性みたいなものも滲み出ますよね」みたいな話をしたときに、池澤さんは「語るというのはつまり、その場でつくることなんですよね。考えていることと、アレとコレをつなぎ合わせてその場でつくりあげていく真実。それは、事実とは少し違う」
それに対して、梨木さんが、「語るということは、聞く側のダイナミズムが起こるという点もありますよね」と言っていたのが印象的だった。そうか、語りには相手の存在が不可欠なんだな。どういう相手に何を伝えようとしているか、とか事実以外のものが大事になっていくんだよな。
考えさせられたのは、人は自分の行動をすべて説明できない、というところ。必ずどこかで合理を超えて動く。それはでたらめという意味じゃない。理屈で動いていたって、最後の最後には人間は合理を超えたところで動くんだ。それが大事なことであればあるほど。
「おまえ、私の嫁にならないか」
と、三郎が雪乃に言うシーンがある。でも、それは前々から決めていた台詞ではなくて、その時ぽろっと口から転がった台詞だった。池澤さんはその例を出して、人はそういう風にして人生の大事なコースを決めていくものなんじゃないか、と言っていた。
これは少し思い当たるところがあった。あのときああしていれば今頃、と思うようなことだったり、今こうしていること、というのは結構思いつきで行動していたときにその道が決まった気がする。自分で絶対こうすると決めてやったことのほうが少ない気さえする。
三郎というのはどうやら最後には死ぬらしい。この物語が日本と蝦夷の出会いをシンボル化したものであればあるほど、ハッピーエンドにすると偽善にしかなれないと考えたそうだ。書き始めから「死ぬしかない」と決められてる主人公を、池澤さんは「引導を渡す」ような「彼らしい形で送り出す」というところでその生と死に向き合ったみたいだ。
途中で池澤さんと梨木さんが、物語をどのように作るかというところで話していたところがあった。梨木さんは池澤さんが理系なひとらしい、緻密な設計図を用意して作っているんじゃないかと思ったそうだが、実は違うらしい。そこで池澤さんが、「知り合いにたいした作家ではないんだけど、おもしろいことを言うやつがいてね」という切り出しで、こんなことを言っていた。
「長編を書くときは、まず頭の中で石をひとつ投げるんだ。それで投げた方向に進む。最終的にその石を拾うかはわからない。その方向に進んでいるうちに、別な何かを見つけるかもしれないし、何も拾わないかもしれない。でも、とにかくエンディングをひとつ決めてその方向に歩き出すんだ」って。
池澤さんは、「登場人物は暴走するが、ストーリー自体は暴走しない」つくりかたをしてるそうだ。梨木さんは、こんな例えをしていた。「プランターに種を撒いたら、芽が出てきて、想像以上に大きくなった。庭に植えなおしたら、手に負えないぐらい大きくなった。そんな感じです(笑)」って。
池澤さんは9・11が起こった後、イラクについて毎日メルマガでコメントしていた時期というのがあったのだけど、その話の終わりにこの言葉を言っていたのが印象的だった。
「後になってやるだけのことをやったというために今やらねばならない」
あと、すごくささいなことだけど、すごく嬉しかったことがひとつある。それは、池澤さんが遊び下手な人間だということだ。実は私もなので、ひそかに嬉しかった。
「なんて楽しいんだろう」思いながら、始まりで終わってしまうようなひと。池澤さんはカヌーの話でこれを言ってた。私はこれが絵にあたるんだけど、ホントあれほど楽しいことはないと思いながら、なぜ続けられないんだろうなぁ。
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以上ストーカーのようなメモだった。
ここまで全部読んだ人は、なんていうか現人神じゃないか?
帰りの電車で30ページを読んだのだけど、「静かな大地」なかなかおもしろそう。池澤さんのは読むのが嫌にならない文体だからいいよな。しかし、読破に一週間はかかりそうだ。ぬーん。
わたし神や*\(^o^)/*
すげー古いね!
社会人なる前やー。
今のまちさんがしゃべってるみたいだったよ。
まちさんの物語や人を見る根っこは変わってないのやーと感じたよ。
もしかしたら変わってるかもしれないけど、このメモではそう感じた!
神がいたー!そうだね、大学4年なのかな。若い。わたしも根っこは変わってないんだなとおもった!言葉のチョイスがmixiだから検索されないとおもって好き勝手書いてんなとおもいつつも(今はもすこし気を使ってしまう)…でも興味津々!って感じがした。